六畳にちょうどいい本

 

どこかへ行きたいがどこへも行けないという若者特有のジレンマは妥協によって解決される場合が多いが、多くの人はそれが妥協だとは信じない。自分を納得させられるだけの説明も出来ないまま、問題自体を頭蓋骨の内側に薄く見えなくなるくらいに伸ばしてへばり付け、知らないふりをして生きているだけに過ぎない。そもそも若者という時間は幻想だ。

少しばかり偉くなると、人は演説というものをする。頼まれたりもするらしい。語るべき言葉を持っている人が羨ましいと思う。例えば観客がみんなミミズでも、拍手をしてくれたなら私はきっと天気のいい春の日午後2時くらいに近所を散歩しているような気分になれるはずだ。むしろ観客はミミズの方がいい。私は卑怯者だ。

 

自主的に自分を軟禁する。保護者がいないので、自分で自分を保護する。六畳から出ずにどこまで行けるか、という問題を考えている間は、六畳から出なければどこへも行けないという問題を考えなくて済む。内なる宇宙は今の所果てしない。命綱なしでも私はこの領域では自我を見失わない。自由だ。脳みそがあれば私はこの部屋の中で実体験よりも刺激的なグレートジャーニーが出来るかもしれない。けれどそれは存在していないものであり、つまりフィクションであり、数字や言葉よりもより圧倒的に不確かなイメージである。私が怠慢である限り悪質なロマンティシズムで、構築された六畳を薬物さながらに満たしている。これからも些細な責務に追われて生きていかなければならないと思うと本当に億劫だ。