六畳にちょうどいい本

 

どこかへ行きたいがどこへも行けないという若者特有のジレンマは妥協によって解決される場合が多いが、多くの人はそれが妥協だとは信じない。自分を納得させられるだけの説明も出来ないまま、問題自体を頭蓋骨の内側に薄く見えなくなるくらいに伸ばしてへばり付け、知らないふりをして生きているだけに過ぎない。そもそも若者という時間は幻想だ。

少しばかり偉くなると、人は演説というものをする。頼まれたりもするらしい。語るべき言葉を持っている人が羨ましいと思う。例えば観客がみんなミミズでも、拍手をしてくれたなら私はきっと天気のいい春の日午後2時くらいに近所を散歩しているような気分になれるはずだ。むしろ観客はミミズの方がいい。私は卑怯者だ。

 

自主的に自分を軟禁する。保護者がいないので、自分で自分を保護する。六畳から出ずにどこまで行けるか、という問題を考えている間は、六畳から出なければどこへも行けないという問題を考えなくて済む。内なる宇宙は今の所果てしない。命綱なしでも私はこの領域では自我を見失わない。自由だ。脳みそがあれば私はこの部屋の中で実体験よりも刺激的なグレートジャーニーが出来るかもしれない。けれどそれは存在していないものであり、つまりフィクションであり、数字や言葉よりもより圧倒的に不確かなイメージである。私が怠慢である限り悪質なロマンティシズムで、構築された六畳を薬物さながらに満たしている。これからも些細な責務に追われて生きていかなければならないと思うと本当に億劫だ。

スローダウンプリーズ


土曜日東京へ着くと雨だった。清潔な部屋にはポーチドエッグの冷めたココットがあって、東京FMは優しい声のDJが三度目のタイトルコール。ベランダの窓を開けると夏の前の雨の匂いだった。「それではお聴きください、シンギン・イン・ザ・レイン」
僕は自由だ。今日はとても好きな君に嫌われないように気をつけなくていい。何をしてもいい。他の男の子と遊んだり水たまりに入ったり昼過ぎまで寝たっていい。たった1日だから寂しくもならない。
お姉ちゃんが仕事に出かけてから、ベランダに出て煙草を吸った。お姉ちゃんは煙草を吸わないはずなのに、ラークのロングの焦げたフィルターがスターバックスのプラコップに4つ入っていた。向かいにはくすんだ黄緑色のマンションがあって、ベランダには各々植木鉢だとか物干し竿やバケツが置いてある。知らない町にも知らない生活があるんだなあ、と思う。
雨で霞んだ向こうにはぼやけたスカイツリーがある。スカイツリーを見るのは初めてなんだった。特に感想は無し。

マンションから出て歩く。湿気が多くて髪の毛がはねるのを気にして、やめた。ひとりぼっちもたまにはいいもんだ。ゆっくり歩いても遅れたりしない。君や友だちに。
交番の隣に小さい公園がある。こんなところで誰も遊びやしないだろう、と思う。少なくとも幼い僕は寄り付かなかっただろう。
なんでもないことが幸せだなんて思うような惨めな人生は嫌だな。そんなこと言うとみんなに怒られるかもしれないから嘘だよって言おう。
女に生まれてよかったことは君の恋人になれたこと以外ないな。お姉ちゃんは悪い人に遊ばれてるのかな。早く帰ってこないかな。今日の夜は美味しいベトナム料理屋さんに連れて行ってくれるらしい。楽しみだな。
だけど雨は止みそうにないな。まあいいか。

慣れない毎日に読んだ本


調べたら心理学の分野では個人的無意識のことをエスと呼ぶらしい。ユングが提唱したそれはラテン語で井戸を表す言葉で、日本語に訳される場合は動物的本能だとか性衝動に置き換えられることもあるみたいだ。

主人公は井戸の底まで降りていく。自分がいるのかどうかもわからなくなってくるほど濃密な闇のなかでじっと考え事をする。個人的無意識は多分無意識っていうくらいだから多くの人はその実態を知らないで生きてる。目の前にかざした自分の手すら確認できない中で主人公は無意識と対峙する。井戸は入り口として使われる。そこで考える。この問題を成してるものは何か。
間宮中尉ノモンハン編で枯れた井戸に突き落とされる。真っ暗な井戸の中で死にかける。そして一瞬だけ降り注ぐ太陽の光に魅了される。そこに何かあると思う。だけど間宮中尉はそれを手にすることが出来なかった。間宮中尉は祝福を受けたんだと思う。
個人的無意識には衝動がある。だけど井戸から無理に引きずり出したりすると元の機能が果たせなくなる。無理に引きずり出した後には、本当に何もなくなっちゃう。空っぽになる。つまり今まで生きてきた私は損なわれちゃう。
井戸に差した光はこの個人的無意識のなかでの間宮中尉を照らした。間宮中尉はそのなかで祝福される自分というものを手に入れるべきだったんじゃないかと思う。自分が生きる使命みたいなもの、この世界においての役割をその井戸の底で知らなきゃならなかったのかもしれない。それも強く。
間宮中尉は皮を剥ぐ悪いやつを殺せなかった。皮を剥ぐ悪いやつのほうがより強くこの世界での自分の役割を認識してたからじゃないかな。それは井戸の中でもとびきり悪い方向に振ってあるおぞましいやつ。メイちゃんが感じた自分の中にある本当に怖いやつ。

この宮脇邸の井戸が枯れているのは、ワタヤノボルのせいなのかな?井戸の底には地下水脈があって、ユング集合的無意識ってそれを呼んでる。ワタヤノボルの能力は個人的無意識を無理矢理引きずり出すことだと思ってた。クレタやお姉さんにしたみたいに。みんなの暴力的な悪い衝動を使って何かするつもりだったんだと思う。メイちゃんの家の水脈は枯れてないのに、宮脇邸の井戸は枯れてた。あ、井戸の中には本来水があるべきなんだ。だから最初にマルタは水の話をしたんだ。でも枯れてるから異常なんだ。枯れてる井戸に降りるってことは、何者かによって枯らされた井戸に水を蘇らせる人がやるんだ。ワタヤノボルや皮を剥ぐ悪い人によって蓋をされた、彼らにとって都合の悪い無意識や衝動を間宮中尉や主人公が取り戻さなきゃならなかったんだ。ねじまき鳥が巻いたのは世界を構成する一要因の、物語が進むために必要な人物のネジなんじゃないかな。みんなは世界のネジって言うけど。そりゃそうかそう書いてあるもん。シナモンもねじまき鳥の声を聞いてる。シナモンもネジを巻かれたんだ。でもあの心臓はなんだったんだろう?多分お父さんのだと思うけど。お父さんは悪いことをしたのかな。もしくはするのかな。どっちにしろねじまき鳥を捕まえようとしてるってことはワタヤノボルサイドになっちゃったんだろうな。悪い衝動を好んでるやつ。
水はなんだろう。ないと死ぬから井戸の底の夜露でも必死で舐めたり、主人公は何度も台所で水を飲む。でもあり過ぎると溺れて死ぬ。マルタが拘ってた。集合的無意識は地下水脈ってことだけど、わかんないや。
あざは、なにかな。獣医にあった、井戸からでできたら主人公に現れたあざ。あれがなかったらナツメグに会えなかったかもしれない。獣医は殺される動物に対して何もできなかったな。命がなくなったものには何も与えられない。与える者であるしるしみたいな感じなのかな。メイちゃんやクライアントはあざを舐めて少なからず悪い方へはいかなかった。むしろ良い方へ進んだと思う。だから多分あざはプラスの何かだ。しかも失われるもののなかで現れた、得たものだ。戻ってきた猫と違って、新しいプラス。井戸に降りる前になくて、降りた後に出来た。RPGで旅の途中手に入れるアイテムみたいにあるクエストをクリアしないと手に入らない。具体的に何かはわかんない。誰か教えて欲しい。多分RPGで出てきたら「僧侶の涙」とか「大妖精の水晶」とか「聖女の祈り」みたいな名前だとは思うんだけど。野球のバットもそうだ。本物の勇者だけが手に入れられる聖剣みたいなもの。悪者はそれでしか裁けない。ガノンドロフもマスターソードじゃなきゃ倒せない。

ナツメグファッションデザイナーとしての情熱を失った後にこの「僧侶の涙」みたいなものを手に入れてる。でもあざじゃないから似てる何かなのかな。獣医も、どうして人間の医者じゃなくて獣医じゃなくちゃならないんだろう。
あ、動物って個人的無意識の権化みたいなものだからかな。動物的本能。の病気を治す人。良くする人。獣医から遺伝したのかな。だけどシナモンにはなかった。シナモンにはもっと別の役割があって、多分ねじまき鳥の声を聞くより前に自覚してたんじゃないかな。だからナツメグに動物的や海での話を聞きたがったんだ。バラバラの場所でバラバラの出来事がシナモンの手によって、コンピューターをプログラムするみたいにひとつの物語として形成されることでそれらがやっと繋がって、ひとつのまとまりになって機能する。過去のそれぞれの主人公が今の主人公にたくさんのヒントを与えて、果たせなかったあるいは果たした役割を受け継いでる。国も血も時間も超えて。でも消えるんだよね、あざ。

敵は強かった、とくに皮剥ぐ悪いやつ。名前忘れた。あれも多分、皮を剥ぐって行為は、無理矢理引きずり出すのと同じことなんだろうな。あいつは、物理的な暴力をもって人を支配するタイプで、時代的にもそれが理想的な暴力的支配のやり方だったし、ワタヤノボルの時代ではワタヤノボルのやり方が理想的だけど、やっぱり2人は同じだ。間宮中尉は負けたけど、本間さんによってその役割は主人公に受け継がれた。カティーサークの空き箱と一緒に。でもあれ、空っぽの瓶じゃなくてどうして空っぽの箱だったんだろう。あの箱に入ってたカティーサークは、まだ空っぽじゃないんだよってことかな。確かに夢の中のクミコはカティーサークを飲んでた。口笛が上手いボーイがどこからか運んできて208に置いてく。口笛が上手いボーイなんていないって顔のない男は言ってたけど。顔のない男って誰?

最後、枯れた井戸に水が取り戻されたのは主人公がワタヤノボルに勝って、彼が塞いだ栓が外れたってことだ。もっと、猫のこととかメイちゃんのこととか考えたいけど疲れた。

僕はヴォネガットが好きなんだけど、それは地球の人たちのすったもんだの人生が全部、トラルファマドール星人の船の部品を届けるためだけに営まれてるっていう、この「わけのわからない強い力」「運命」によるものにより翻弄されたしょーもない使い捨ての、さらに必ず意味のある命っていう考え方が好きだ。イキった選択もなんとなくの行動も全部どうせトラルファマドール星人が仕組んだことだと思うと気が楽になる。本当はそんなことないんだけど、いやないとは言い切れないけどね、だけどそれでとんでもなくほとんど奇跡って呼べるくらいうまく世界が動いてる。うまくっていうか、あるべきようにっていうか。僕は実感したことないんだけど、でも僕がこうしてつまんない日記書いてる間にもどこかのだれかがうまい具合に噛み合って悪と対峙してるのかもしれない。多分してる。それで物語は動くし続くし変わって行くんだと思う。